2014年05月09日
CISOとは
【概要】
まだCIAがベトナムでの活動を監督していた60年代初頭、CIAは特殊部隊や工作員が使う消音器付き火器や無線傍受機などは
沖縄のキャンプ知念に置かれた「極東支援基地局」を通じて調達されていました。
これらの物品は追跡されないようにするため、現場に引き渡された時点で基地局の台帳から物品の存在そのものを無かったことにするシカケになっていたそうです。
ピッグス湾事件の後の1963年末期、パラソル/スイッチバック作戦が開始され
ベトナムにおけるアメリカのプレゼンテーションはCIAから軍の主導へと移管されます。
そしてSOGが発足し活動を開始した1964年初め、SOGの傘下として、ある組織が沖縄に開設されました。

(製作した装備と中国製の火器と共に記念撮影するCISOスタッフ)
CISO / Counter-Insurgency Support Office(対反乱支援センター)
CISOはCIDG計画とSOGで活動する特殊部隊や付随する南ベトナム軍特殊部隊を兵站面からサポートする役割を担った組織です。
彼らが使用した装備のうち多数が、このCISOを介して支給されたものでした。
SOGが行う越境作戦という政治的にグレーな任務ではその性質上、物品番号などの表記がされてない
“アントレーサブル(ステライル)”の装備品を使用する必要性が生じました。
untraceableは物品番号などから製造元を割り出せないようにすること。
sterileは「素っ裸」の意。無刻印の装備品や衣服に対しSOG関連の書籍などで頻繁に使われる表現です。現場でもこの単語が使われてたのでしょう。
他にも
・アメリカ製のブーツやユニフォームの寸法が東南アジア人の体格にフィットしない
・現行の装備で任務に即したものが無い
・レーションの食文化が合わない
・そもそも部族はレーションの説明書きが読めずメニューも理解できない
などなど、既存の規格品では対応できないさまざまな問題が存在しました。
そこで特殊部隊では、CISOによって新しいアイテムを独自に設計・開発し、アジアの民間企業と契約して生産させ
CISOの補給処に集約・管理し現地へ送る、という特殊な補給ルートを形成するという手法がとられました。
【体制】
任務の性質上、組織は厳重な機密管理下に置かれていました。
CISO発足時は
・尉官1名(大佐)
・軍曹1名
・5~6人の現地人スタッフ
という人員の内訳だったそうです。
SOGやCIDGの増大する需要に応じて徐々に規模を拡大し、現地人スタッフ100人を雇った補給処を持つに至りました。
そしてCISO専用の揚陸艇船団9隻までも所有し、那覇港からニャチャンへと、特殊部隊の要求した物品を送り続けていました。
ニャチャンにはフィリピン人スタッフが務める巨大な補給支援センターがあり、送られた物品はそこに集積され
CIDGや特殊部隊隊員たちはCIDGで一般的に使った装備品が簡単な物々交換で手に入れることができました。
使用できなくなった装備は補給センターに渡せば書面の手続きなどもなくその場で交換できのだそうです。
特殊部隊のDepoでは過去にCIAがとった
「一度資金や装備品がエンドユーザーにサインされたら物品管理の台帳から記録を消してよい」という姿勢に賛同していたので
陸軍の物品管理資料レギュレーションは無視することができ、記録は残されませんでした。
【CISOの“Q”】

(1967年 CISO前にて)
1963年6月 CISOの副局長に就任したNCOは
Sgt. Conrad Benjamin “Ben” Baker / コンラッド・ベンジャミン“ベン”ベイカー軍曹 という人物でした。
CISOはこの1人の軍曹によって成り立っていたと言っても過言ではありません。
限定的な調査や開発を行う権限も持っていたCISO、というかベイカー氏はしばしば新しい装備品を設計しました。
有名なSOGナイフ(正式にはリーコンナイフ)の他に、バナナナイフ、CISOインディジファティーグ、
CISOインディジラックサック、PIRレーションなど、SOGおなじみのさまざまなアイテムを開発しています。
驚くべきことに、彼のものづくりの技術は全て独学だったのだそうです。

1963年、Plei Mrongにて、ヤードの彫刻(お墓?)の前でポーズをキメてるベイカー氏
本人いはく、彼のお気に入りの武器はM2A1カービンだったそうです。

1968年のニャチャンにて、ベイカー氏がテト攻勢時に鹵獲したNVAの武器や装備を5th SFGのメンバーと共にチェックしていることろ。

戦後の姿。
持っているのは氏が要請に応じて開発した部族向けのLRRPレーションといえる「PIRレーション」
コメが中心のメニューで、個々のパッケージの説明書きには文字を一切使わず絵のみが書かれているのだとか。
この写真で見た感じだと、CISOの物品には極秘で作られたと言ってもFSN(物品番号)の登録はされていたみたいですね。
品物自体に刻印や記載はしなかっただけで。
【CISO供給品一覧】
別に一覧表があるわけではなく文献やサイトの書き込みで「CISOにより開発されたor調達された」
という記載があったものを、備忘録かねてこちらに随時列挙していきたいと思いますので参考にどうぞ。
まだCIAがベトナムでの活動を監督していた60年代初頭、CIAは特殊部隊や工作員が使う消音器付き火器や無線傍受機などは
沖縄のキャンプ知念に置かれた「極東支援基地局」を通じて調達されていました。
これらの物品は追跡されないようにするため、現場に引き渡された時点で基地局の台帳から物品の存在そのものを無かったことにするシカケになっていたそうです。
ピッグス湾事件の後の1963年末期、パラソル/スイッチバック作戦が開始され
ベトナムにおけるアメリカのプレゼンテーションはCIAから軍の主導へと移管されます。
そしてSOGが発足し活動を開始した1964年初め、SOGの傘下として、ある組織が沖縄に開設されました。

(製作した装備と中国製の火器と共に記念撮影するCISOスタッフ)
CISO / Counter-Insurgency Support Office(対反乱支援センター)
CISOはCIDG計画とSOGで活動する特殊部隊や付随する南ベトナム軍特殊部隊を兵站面からサポートする役割を担った組織です。
彼らが使用した装備のうち多数が、このCISOを介して支給されたものでした。
SOGが行う越境作戦という政治的にグレーな任務ではその性質上、物品番号などの表記がされてない
“アントレーサブル(ステライル)”の装備品を使用する必要性が生じました。
untraceableは物品番号などから製造元を割り出せないようにすること。
sterileは「素っ裸」の意。無刻印の装備品や衣服に対しSOG関連の書籍などで頻繁に使われる表現です。現場でもこの単語が使われてたのでしょう。
他にも
・アメリカ製のブーツやユニフォームの寸法が東南アジア人の体格にフィットしない
・現行の装備で任務に即したものが無い
・レーションの食文化が合わない
・そもそも部族はレーションの説明書きが読めずメニューも理解できない
などなど、既存の規格品では対応できないさまざまな問題が存在しました。
そこで特殊部隊では、CISOによって新しいアイテムを独自に設計・開発し、アジアの民間企業と契約して生産させ
CISOの補給処に集約・管理し現地へ送る、という特殊な補給ルートを形成するという手法がとられました。
【体制】
任務の性質上、組織は厳重な機密管理下に置かれていました。
CISO発足時は
・尉官1名(大佐)
・軍曹1名
・5~6人の現地人スタッフ
という人員の内訳だったそうです。
SOGやCIDGの増大する需要に応じて徐々に規模を拡大し、現地人スタッフ100人を雇った補給処を持つに至りました。
そしてCISO専用の揚陸艇船団9隻までも所有し、那覇港からニャチャンへと、特殊部隊の要求した物品を送り続けていました。
ニャチャンにはフィリピン人スタッフが務める巨大な補給支援センターがあり、送られた物品はそこに集積され
CIDGや特殊部隊隊員たちはCIDGで一般的に使った装備品が簡単な物々交換で手に入れることができました。
使用できなくなった装備は補給センターに渡せば書面の手続きなどもなくその場で交換できのだそうです。
特殊部隊のDepoでは過去にCIAがとった
「一度資金や装備品がエンドユーザーにサインされたら物品管理の台帳から記録を消してよい」という姿勢に賛同していたので
陸軍の物品管理資料レギュレーションは無視することができ、記録は残されませんでした。
【CISOの“Q”】

(1967年 CISO前にて)
1963年6月 CISOの副局長に就任したNCOは
Sgt. Conrad Benjamin “Ben” Baker / コンラッド・ベンジャミン“ベン”ベイカー軍曹 という人物でした。
CISOはこの1人の軍曹によって成り立っていたと言っても過言ではありません。
限定的な調査や開発を行う権限も持っていたCISO、というかベイカー氏はしばしば新しい装備品を設計しました。
有名なSOGナイフ(正式にはリーコンナイフ)の他に、バナナナイフ、CISOインディジファティーグ、
CISOインディジラックサック、PIRレーションなど、SOGおなじみのさまざまなアイテムを開発しています。
驚くべきことに、彼のものづくりの技術は全て独学だったのだそうです。

1963年、Plei Mrongにて、ヤードの彫刻(お墓?)の前でポーズをキメてるベイカー氏
本人いはく、彼のお気に入りの武器はM2A1カービンだったそうです。

1968年のニャチャンにて、ベイカー氏がテト攻勢時に鹵獲したNVAの武器や装備を5th SFGのメンバーと共にチェックしていることろ。

戦後の姿。
持っているのは氏が要請に応じて開発した部族向けのLRRPレーションといえる「PIRレーション」
コメが中心のメニューで、個々のパッケージの説明書きには文字を一切使わず絵のみが書かれているのだとか。
この写真で見た感じだと、CISOの物品には極秘で作られたと言ってもFSN(物品番号)の登録はされていたみたいですね。
品物自体に刻印や記載はしなかっただけで。
【CISO供給品一覧】
別に一覧表があるわけではなく文献やサイトの書き込みで「CISOにより開発されたor調達された」
という記載があったものを、備忘録かねてこちらに随時列挙していきたいと思いますので参考にどうぞ。
【衣服】
・タイガーストライプ ・ブラックパジャマ ・インディジナス隊員用ファティーグ
・NVAユニフォーム(サンヘルメットからブーツまで一式)
【ギア】
・ロングマグポーチ ・ユニバーサル型マグポ ・STABOハーネス
・インディジナスラックサック ・
・各種NVAポーチ
【武器】
・7インチリーコンナイフ ・6インチリーコンナイフ ・ボロナイフ(マチェット)
・AK用30連弾倉 ・V40グレネード
【その他】
・PIRレーション ・ポンチョ ・ラペリング用薄手レザーグローブ
・リーコンウォッチ ・盗聴器や各種センサー
・タイガーストライプ ・ブラックパジャマ ・インディジナス隊員用ファティーグ
・NVAユニフォーム(サンヘルメットからブーツまで一式)
【ギア】
・ロングマグポーチ ・ユニバーサル型マグポ ・STABOハーネス
・インディジナスラックサック ・
・各種NVAポーチ
【武器】
・7インチリーコンナイフ ・6インチリーコンナイフ ・ボロナイフ(マチェット)
・AK用30連弾倉 ・V40グレネード
【その他】
・PIRレーション ・ポンチョ ・ラペリング用薄手レザーグローブ
・リーコンウォッチ ・盗聴器や各種センサー
この記事へのコメント
いわゆる"SOGレーション"って、PIRレーションという名称だったんですね~!
LRPレーションとは別に作られた理由がようやく分かりました。
CISOの野戦服やインディジナスリュックなどは、クメールやラオスの政府軍にも支給されていたようなので、南ベトナムに限らず東南アジア向けの反共軍事支援物資と言えるかも知れませんね。
ARVNリュックも同様にタイやフィリピンを含む周辺国に出回っている(韓国も使ってますが、この場合は生産国だったため)ので、これもCISOに近い部署が作らせたんじゃないかと思っています。
デガの家にある木彫りの像は、子孫繁栄を祈願する男女の彫像でして、この写真では折れてしまってますが、男性の像には立派な男根が付いてますw
LRPレーションとは別に作られた理由がようやく分かりました。
CISOの野戦服やインディジナスリュックなどは、クメールやラオスの政府軍にも支給されていたようなので、南ベトナムに限らず東南アジア向けの反共軍事支援物資と言えるかも知れませんね。
ARVNリュックも同様にタイやフィリピンを含む周辺国に出回っている(韓国も使ってますが、この場合は生産国だったため)ので、これもCISOに近い部署が作らせたんじゃないかと思っています。
デガの家にある木彫りの像は、子孫繁栄を祈願する男女の彫像でして、この写真では折れてしまってますが、男性の像には立派な男根が付いてますw
Posted by タイガ
at 2014年05月09日 19:24

食文化のことは我々も共感できる話題ですよね。
となると野戦服も結構な数が作られていた可能性がありますね。市場に出てきませんが…。
左の像コレ身ごもってるんですね!!(爆笑)
意味が分かった途端ベイカー氏がみるみるシュールに見えてきましたw
後ろにある屋根は家なんですね。
背が低くて弥生時代のたて穴式住居みたいです。
となると野戦服も結構な数が作られていた可能性がありますね。市場に出てきませんが…。
左の像コレ身ごもってるんですね!!(爆笑)
意味が分かった途端ベイカー氏がみるみるシュールに見えてきましたw
後ろにある屋根は家なんですね。
背が低くて弥生時代のたて穴式住居みたいです。
Posted by Kingbee
at 2014年05月10日 16:19

すいません!家というのは僕の勘違いでした。
調べなおしたら、やっぱりその小屋はジャライ族のお墓でした。失礼しました。
小屋は人が出入りする為の物ではなく、棺を埋めた場所の上に屋根が付いているだけで、屋根の下に死者があの世で使う水や食器などがお供え物として置いてあるみたいです。
また墓には中央の男女像の他にも、四隅にしゃがんだ子供、動物や人間の像が置かれ、それらはあの世で故人の従僕となるそうです。
調べなおしたら、やっぱりその小屋はジャライ族のお墓でした。失礼しました。
小屋は人が出入りする為の物ではなく、棺を埋めた場所の上に屋根が付いているだけで、屋根の下に死者があの世で使う水や食器などがお供え物として置いてあるみたいです。
また墓には中央の男女像の他にも、四隅にしゃがんだ子供、動物や人間の像が置かれ、それらはあの世で故人の従僕となるそうです。
Posted by タイガ
at 2014年05月10日 20:25

わざわざ調べてくださって…!ありがとうございます。
死者を弔う気持ちの表し方は文化によってさまざまですが、デガのそれも結構豪華ですね。
ヤードのスピリチュアルな部分の文化も調べると興味深そうです。迷信とかジンクスとかいろいろあったと聞きまので。
死者を弔う気持ちの表し方は文化によってさまざまですが、デガのそれも結構豪華ですね。
ヤードのスピリチュアルな部分の文化も調べると興味深そうです。迷信とかジンクスとかいろいろあったと聞きまので。
Posted by Kingbee
at 2014年05月10日 23:37

すごい興味深い内容でした!
高い秘匿の元で行われたのですね。
小林源文さんのベトナム漫画から現地部族の特殊部隊の存在を知りました。
レーションの製造場所の話。ひょっとしたら住所とか偽なのかもしれないと想像してしまいました。
高い秘匿の元で行われたのですね。
小林源文さんのベトナム漫画から現地部族の特殊部隊の存在を知りました。
レーションの製造場所の話。ひょっとしたら住所とか偽なのかもしれないと想像してしまいました。
Posted by オブジェクト at 2018年06月19日 23:43